勉強は量だ。でも、その「量」とは?

勉強は量だ――これは塾でよく口にする言葉である。
どんなにセンスがあろうが、どんなに頭の回転が速かろうが、結局は机に向かった時間の差が、学力の差になる。
まずは量。その姿勢に異論はない。

しかし、量とは何を指すのか。

たとえば、3時間かけて2ページしか終わらなかった生徒と、1時間で6ページをこなした生徒がいたとする。
この場合、どちらが「量をこなした」と言えるか。
言うまでもなく、後者である。

時間をかけただけの勉強は、量には数えない。
ぼんやりと机に向かい、考え込むふりをしながらノートをいじっていても、それは勉強ではなく、作業でしかない。
勉強とは、自分の頭を動かし、前に進むための行為である。

だから「勉強は量だ」とは、「長時間だらだらやれ」という意味ではない。
ページ数でも、問題数でも、達成目標でもいい。
何をどこまでやったか、その中身こそが量なのである。

もちろん、最初から完璧を求めていては手が止まる。だからこそ、「まずは量から入れ」と言っている。
だが、やり方を工夫することも、時間を意識することも放棄した「量」では、伸びるはずがない。

勉強は量だ。ただし、その「量」とは、目的と集中をともなった中身ある量であるべきだ。
それを可能にするものこそが、歩実塾の中学生であれば「記録帳」や「振り返り」なのだ。
時間だけを積み上げた空虚な努力に、未来は開けない。

量をこなせ。その中に自分の意思と意識を、すなわち魂を宿らせよ。

それが、結果に結びつく本物の勉強である。

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