この春の早大野球部の記事を見て、改めて考えさせられた。
早稲田といえば、大学野球の名門である。
だが今季は苦しんでいる。
ここまで、勝ち点を取れているのは東大戦のみ。
本来、もっと上を争っていて当然と思われるチームだ。
そんな状況の中で、監督が口にしたのが、
「自主性に任せることの限界」
という趣旨の言葉だった。
この言葉、教育に携わる人間としては非常によくわかる。
「自主性」という言葉は聞こえがいい。
自分で考える。
自分で動く。
言われなくてもやる。
理想である。
だが、自主性が機能するのは条件がある。
何をやるべきか分かっている。
どこまでやればよいか分かっている。
結果に責任を持てる。
その土台がある人間に対して初めて、「任せる」が成立する。
土台がない状態で自主性を掲げても、それは自主性ではない。
ただの放任である。
もうそろそろ始まる定期試験の勉強だって同じだ。
5教科450点に届いていない。
それなのに、
「自分なりにやっています」
「自分のやり方があります」
……いや、そのやり方で結果が出ていないのなら、まずそこを疑うべきだろう。
自己流で結果が出ない。
でも自己流を貫く。
それは自主性ではない。好き勝手のやりたい放題である。
歩実塾では、5教科450点に届かない生徒には、こちらの指示に従ってもらう。
何をやるか。
どの順でやるか。
どこまでやるか。
こちらが決める。
厳しいと思うかもしれない。
だが、結果が出ていない段階で「好きにやっていいよ」と言うほうが、よほど無責任だ。
逆に、450点を安定して取れる生徒なら話は別である。
ある程度、自分の裁量で進めていい。
自分で計画を立て、修正し、結果を出せるなら、それは本物の自主性だからだ。
自主性とは、「好きにやること」ではない。
自分で考え、自分で結果に責任を持てること。
自由は、実力のあとにくる。

